やっと冬らしい季節になってまいりました。
もう、クリスマスも間近ですねえ。
クリスマスといえば、イエス・キリストの生誕のお祝いの日ですが、
本当は、12月25日はキリストの誕生日ではないことは、多くの人がご存知かと思います。
実はちょうど去年の降誕節のあたりから、私は教会に通い始めました。
その時、何箇所かの礼拝に参加したのですが、
2人の牧師さんが「イエス・キリストの誕生日は本当は12月25日ではありませんが...」
と前置きしていたのが印象的でした。
ああ、もうそれはキリスト教界隈でもオープンになっていることなんだなあ、と。
イエス・キリストの誕生日は、聖書にはっきりと示されていません。
しかし、聖書の中の様々な記述を総合して考察すると、
冬ではなく、秋ごろの五旬節から仮庵の祭りの間ではないかと言われています。
それがなぜ、12月25日になったかと言えば、キリスト教をローマ帝国に定着させる際に、
彼の地の異教の伝統を取り入れたからです。
12月25日はソル・インウィクトゥスの祭り、ローマで崇められていた太陽神のお祭りでした。
イエス・キリストの誕生日が聖書には明言されていなかったため、ローマ・カトリックが12月25日を誕生日と設定し、
4世紀初頭ごろの教会諸会議のなかで、公に認められる形になったそうです。
この季節、太陽の力がどんどん弱くなり、夜が深まっていきます。
それがピークに達するのが、冬至であり、その日を境に、太陽の力は夏至に向けて強まっていきます。
冬至に太陽が死んで、再び蘇りのサイクルに入る約3日目の12月25日。
この太陽のサイクルとキリストの復活を重ねたのでしょう。
だから、イエス・キリストは実在の人物ではなく、太陽神をトレースした神話に過ぎないという人もいます。
けれども、キリストの誕生日を仮庵の祭りとすると、全く違う話になり、太陽神との関連性は無くなります。
キリストは仮庵の祭りに生まれ、過越の祭りの時に十字架にかけられました。
両方ともユダヤ教においてとても重要なお祭りです。
仮庵の祭りはユダヤ暦の第7の月の15日と決まっており、人々はその日から仮庵(仮住まい)を作って、かつて出エジプトの際にユダヤ民族が40年間荒野で過ごした仮住まいの(仮庵)日々に想いを馳せると言います。
キリストがこの時期に生まれた象徴的な意味は、神である存在が仮初のこの世に肉体を纏って一時的に降りてきた、と解釈されるそう。
そしてユダヤ教徒はこの祭りの時期には旧約聖書の「コヘレトの言葉」を読むのが慣わしで、
この世は全て過ぎゆく、仮のものに過ぎないというメッセージを心に留めます。
その冒頭にはこう書かれています。
コヘレトは言う
空の空
空の空、一切は空である。
太陽の下、なされるあらゆる労苦は
人に何の益をもたらすのか。
一代が過ぎ、また一代が興る。
地はとこしえに変わらない。
日は昇り、日は沈む。
元の所に急ぎゆき、再び昇る。
南へ向かい、北を巡り
巡り巡って風は吹く。
すべての川は海に注ぐが、海は満ちることがない。
どの川も行くべき所へ向かい
絶えることなく流れゆく。
どちらかといえば、仏教っぽい趣でもありますね。クリスマスのキラキラムードとは程遠いですね。
多分、クリスマスがこれだけ全世界的にお祝いされるお祭りになったのは、
やっぱり12月25日だったからではないかな、と思うのです。
太陽を神とする伝統は世界の至る所にあり、冬至や夏至などその節目を祝う祭りも普遍的なものです。
1日のうちで暗い時間が増えて、寒さで自然も死に絶える。その陰のエネルギーがギュッと極まる時期に
次にやってくる太陽の蘇りのサイクルを祝い、光を灯す。
暗闇の中にパッと光る灯り。人間の自然の心情にしっくりきますよね。
だから、ある意味ではこの時期を「キリストの誕生日」とするのは布教する意味では都合が良かったのでしょう。
一番寒くて暗い時期なのに、なぜか華やいだ気持ちになれます。
キリストの誕生日じゃないとわかっていても、この時期になると何かお祝い気分になります。
しかし同時に、そのせいで本来の意味が埋もれてしまったようにも感じます。
旧約聖書から新約聖書へ、そして現在にまで続く、ダイナミックで予言的な流れ。
それが季節的な文脈に挿げ替えられたのは意図的だったのか、たまたまだったのでしょうか。
深まる夜にあれこれ想像してしまいました。