12月13日は今年最後の新月、毎日、どんどん日が短くなっていますね。
今、太陽は蠍座のジェーシュターというナクシャトラを運行中です。年長者という意味があり、ジューシュター・デヴィは幸運の女神ラクシュミの姉で、不運を司る女神アラクシュミとも呼ばれます。不運から身を守ってくれる女神とされるアラクシュミは、周りにカラスが飛び交い、白い服を身に纏い、恐ろしげな表情の老婆として描かれています。なぜ、このような女神がこの場所に配置されているのでしょうか?
天空の黄道12宮を27に区切るナクシャトラは、3つのステージに区切られています。最初は牡羊座から蟹座までのラジャスのステージ。これは目的に向かって突き進むフレッシュで能動的なエネルギーです。蟹座から蠍座まではタマスのステージで、ここではラジャスで獲得した現世的な富や成果を保持し、堪能します。そして射手座から魚座はサットヴァのステージとなりこれまで獲得した物質的な富を手放し、霊的な成長へと跳躍する段階です。
それぞれのステージの境界線、すなわち蟹座と獅子座、蠍座と射手座、魚座と牡羊座の境目は「ガンダーンタ(カルマの結び目)」と呼ばれます。水の星座から火の星座という正反対のエレメントがぶつかり合いエネルギーが非常にインテンスで不安定になると言われます。その中でも蠍座と射手座の間は、物質的な質が極まって、霊的なステージへと転換するポイントで、太陽がこの場所を通過するのがちょうど冬至の前後になるのです。
まさに今、太陽はこの場所を運行しています。
太陽の力が最も弱まって、陰のエネルギーが極まるこの時期になると、私はいつも「魂の闇夜」と言う言葉を思い出すのです。
「魂の暗夜」(英語ではDark Night of the Soul )はカトリックの神秘主義の文脈でよく知られた概念であり、16世紀のスペインのカルメル会の司祭だった聖ヨハネ・デ・ラ・クルス(十字架のヨハネ)の著作に由来しています。聖ヨハネは、神秘主義者として知られ、自身の霊的な苦悩の経験、深い神秘的洞察を詩や散文で表現しました。「暗夜」と言う作品がよく知られています。
端的に言えば、「魂の闇夜」とはスピリチュアル・エマージェンシーのことで、霊的修行の中でしばしば遭遇する深い困難や苦悩の期間のことを指します。マザーテレサも、経験したと言われています。今ではキリスト教カトリックの伝統を超えて、どんな道であっても霊的な修行を行う人が遭遇する、変容のプロセスを指す言葉として使われています。
具体的な状態としては、深い抑鬱感、空虚感、そして自分の無価値観、世の中の全てが無味乾燥に見え、今までの修行さえも無意味に思え、神との繋がりさえ見失ってしまう、どん底の体験です。けれどそれは古い自己が死んで新しく生まれ変わるための揺り動かしの期間で、サナギが蝶に生まれ変わるために必要な仮死状態でもあるのです。
通常私たちは、エゴという殻に自分を同一化させ、その外側にある至高の存在や体験を追い求めます。しかし修練やあるいは人生の中で深い喪失体験などに出会うと、エゴの覆いに裂け目が生まれます。その時不意に概念化を超えた「私」つまり「真なる自己」とも呼べる「私」を発見することがあります。エゴが揺さぶられるということは、同時に、自分の外側に対象化されていた「神」や「世界」の概念も揺さぶられ、自分が拠り所としてきた価値観や世界観が崩壊していきます。これが「闇夜」と呼ばれる状態と言われます。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」
(ヨハネによる福音書12:23)
このよく知られた聖句が語るように、一粒の麦は、麦の殻に覆われたままでは、一粒のままで死ぬだけです。けれどその殻を突き破って芽を出せば、多くの実を結びます。「一粒の麦」が新しい命として新生するためには、「一粒の麦」としてのアイデンティティを手放さねばなりません。それは麦にとっては自分自身の崩壊であり、とても恐ろしいことなのです。
しかし、その死のプロセスを経てこそ、命は生まれ変わります。
と考えれば、なぜ蠍座の最後のナクシャトラであるジェーシュターが「年長者」という意味なのか、アラクシュミと呼ばれる老婆と関わりが深いのかが何となくわかる気がします。私たちはここで「一粒の麦」というエゴとしての自分の成長が極まり、もうこの先は行き止まりだ!という段階にたどり着くのです。
一つの物事が熟しきり、次のステージに生まれ変わるには、種になって地中に埋められなければなりません。それを拒めば、ただ腐って死に絶えるだけなのです。古い私を手放して、次のステージに跳躍するか、このまま古い私を握り締め続けるのか?死の恐怖と対峙するのです。
もしも私たちがこのような闇夜に陥ったらどうしたら良いのでしょうか?
朗報があります。答えは、ジタバタしても無駄だということです。
無理矢理力づくで、何かする必要はありません。ただじっとしてあるがままに静けさのままにとどまること。
大いなる存在の働きに信頼し、主権は全て明け渡してしまうしかないのです。
なぜならサナギはどうやって自分が蝶になるのかはわかりません。
地中に落ちた一粒の麦は自分がどうやって芽吹くか分かりません。
真の変容は私たちの意思やコントロールを超えたところで起こるのでしょう。
自分でできることは、そのプロセスを邪魔しないで静かにしていることだけです。
闇の中でじっとしている他はないのです。死んだ太陽も必ず力を取り戻します。それを信頼するしかありません。
師走の太陽が織りなすドラマはまさに、この死と再生のプロセスを天体が体現しているように感じます。
多かれ少なかれ、この季節には誰もが自然と、古いものを整理して、新しいものがやってくるためのスペースを作ろうとします。
今自分は何を手放すのか、手放したくないのか、不要になったものは何なのか、振り返ってみるのもいいかのかもしれません。